徳川家康影の影武者説とは?諸説を詳しくご紹介!

戦国時代には様々な噂があり、中には上杉謙信が女だったという説すらありますが、もう一つびっくりするような説があります。

それが徳川家康が途中から影武者になり、その影武者が戦い続けたという説です。

今回はこの徳川家康影武者説についてとにかく迫ってまいります。

この影武者になったと言われている、世良田二郎三郎元信とは何者だったのでしょうか。

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徳川家康影武者説って何?

徳川家康影武者説というのは内容をまとめて記載すると、「桶狭間がある1560年に、松平元康(のちの徳川家康)が家臣に暗殺され、この元康の死をカモフラージュするために、世良田二郎三郎元信が影武者になった」という内容です。

徳川家康は神君として名高く、尊敬している人も圧倒的に多く、影武者説といった出自を疑う説は出てこなかったのです。

この説が出てきたのは、1902年に地方官吏の村岡素一郎という人物が、民友社から出版された「史疑徳川家康事蹟(しぎとくがわいえやすじせき)」という本が登場したからです。

1900年代の初頭というのは、まだまだ徳川家の力が強かったので、重版はされなかったようですが、この影武者説というのがいろんな想像をかき立てられたのか、今でも噂の一つとして残り続けています。

1960年代に徳川家康ブームが発生して、様々な文献が注目されるようになり、今回紹介するような徳川家康影武者説もピックアップされたのです。

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影武者説の根拠は?

影武者説の根拠として用いられたのは、儒学者である林羅山の『駿府政事録』という日記にあるとされています。

この林羅山は、1583年生まれの江戸時代初期の朱子学派儒学者で、家康の命により僧形となり、そののち徳川家光にも仕えて、『寛永諸家系図伝』といった伝記物や歴史書の編纂やまとめを行いました。

さらには幕府政治にもかかわってくる重要人物となるのです。

この人物の日記である『駿府政事録』に、「徳川家康が子供の頃に又右衛門に銭五百貫文で売り飛ばされた」とか、「9歳から18~19歳まで駿府に居た」と書いてあり、正史とは違う記述があります。

この違いから実は影武者だったのではないのだろうかという考え方が発生し、今につながるような噂になっているのです。

結局この徳川家康影武者説って本当なの?

結論から記載すると「影武者説の問題点がとっても多いので、はっきり言って信憑性はかなり低い」となると思います。

そもそも、この影武者説の根拠となっている書物は『駿府政事録』だけで、入れ替わったという根拠が他に見つかっていないといわれております。

さらに、この根拠とされている『駿府政事録』も、入れ替わりがあったという明確な記載はありませんので、信憑性が薄いといわれてもしょうがないでしょう。

また、戦国時代は人の命も価値も非常に希薄で、人身売買があったのも事実ですが、その当時の人身売買の奴隷価格は、だいたい二十銭から三十銭とされているので、銭五百貫はありえないという指摘もあります。

また、この影武者説には「桶狭間で今川義元が敗れた後に浜松城を落とした」といった記述があるのですが、この浜松城は1568年に徳川家康が攻略するまで飯尾氏が支配していたので、この記述も信用できないという意見もあるのです。

乗っ取られたという事実は存在しないと指摘されているので、ますます信憑性は低くなります。

影武者説っていくつもあるの?

最も世の中に広がって波紋を呼んだのが、この桶狭間の戦いのタイミングで入れ替わったとされる影武者説であり、この影武者説を『信長の野望』で実現可能にした作品もあるのです。

しかし、今回紹介した影武者説以外にも、どこかで入れ替わったという説が存在します。

例えば「1600年ごろから家康の人格がだいぶ変わったのでこのタイミングで入れ替わった」という説です。

これは1600年の関ヶ原の戦いにおいて暗殺されてしまい入れ替わってしまったという説になります。

他にも大坂の陣で実は戦死していたという説もあります。

こちらは真田信繁の奮戦で恐慌状態に陥ってしまい、逃亡中に後藤基次によって負傷し、その後堺の寺に運ばれて死亡し、入れ替わったという説になります。

いろいろと影武者説がありますが、個人的に錯乱とか恐慌状態になり逃げる徳川家康というのが、なかなか信じられないので、後者は信憑性がかなり薄いと思います。

確かに、武田信玄との戦いになった三方ヶ原ではボロボロにされて、恐怖のあまり脱糞してしまったという逸話もあります。

さらに真田信繁がすさまじく、しぶとかったので、確率はゼロではないと思いますが、逃亡するにしても襲われる可能性がある行動をとるとは思えないのです。

関ヶ原の戦いで暗殺されたというのも、可能性はゼロではないと思いますが、伊賀者を徹底的に配備していた徳川方に暗殺という手段が、成功するとはあまり思えません(むしろ暗殺をする側だと思う)。

徳川家康についてのちょっとした噂

このように影武者説がかなりたくさんある徳川家康ですが、他にもちょっとした噂はかなりたくさんある人です。

戦国武将とは思えないほど長生きして様々な逸話がある人なので、こういったうわさも事欠かないのでしょう。

医者よりも医学に詳しかった?

これはかなりの、健康オタクだったのが由来だと思います。

徳川家康は多趣味でしたが、その趣味の一つに薬の調合があり、自分で飲む薬は自分で用意するほどの薬マニアでした。

そのため、当時の他の医者と比較しても、それを上回るレベルで医学知識が高かったといわれております。

孫のために薬を用意したという逸話もありますが、基本的にこの医学知識は己のみに用いており誰かに伝えるといった代物ではなかったようです。

また、この噂の信憑性を高める情報の一つに、医者に治療や診察を推奨されても自分の医学知識を信じるとして、すべて拒否したというものがあります。

逆に医学に詳しすぎたので、そのような知識が戦国武将が持つのは不自然だとして、入れ替わったのだといわれるようになってしまったという指摘すらあります。

死因は食中毒って本当?

本当です。

もっと詳しく記載すると、徳川家康の死因は「大好きな鯛のてんぷらを食べすぎて食中毒になってしまったこと」にあります。

しかし、この当時すでに70代だったので体は弱っていたのでしょう。

様々な戦場を生きてきた人が70過ぎまで生きたのだから、これはすさまじいことです。

まとめ

以上、いかがだったでしょうか。

今回は徳川家康の影武者説について、情報を集めてみました。

調べてみるとこの徳川家康影武者説はいろいろあってびっくりしました。

いろんな武将の影武者説はありますが、その中でもこれほどまで影武者説がある人物は少ないと思います。

仮に影武者説が本当だったとしても、影武者となった人物もかなりの英雄と言えるでしょう。

そのような能力を持っている人が影武者で埋もれ続けているというのはもったいなさすぎる気もしますが、発揮される場面がなかったといわれると納得できる部分もあります。

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