シャチホコと言えば、大阪城や名古屋城の金のシャチホコが非常に有名ですが、そもそもこのシャチホコとはいったい何なのでしょうか。
今回はこのシャチホコという存在について詳しく解説しつつ、様々な歴史をたどってきた名古屋城の金のシャチホコについて、より詳しく解説してまいります。
歴史を調べれば調べるほど、数奇な運命にあったことが良くわかる名古屋城の金のシャチホコなのです。
そもそもシャチホコとは何?
シャチホコを見たことがあるという人は多いため、名前を聞くとあの見た目がすぐに思い浮かびますが、そもそもこのシャチホコとはどのような存在なのかまで理解している人は少ないでしょう。
答えは『古代中国の人が考えた空想上の存在』となります。
いわゆる妖怪といった空想上の存在に近いものと思っていただければいいでしょう。
その姿は頭が竜か虎の形で、胴体が魚となっており、体には鋭いトゲが生えているとされています。
日本のお城の天守閣にあるシャチホコも、この由来の通りの姿なのです。
このシャチホコは非常に狂暴な生き物という設定があり、体はそれほど大きくはないけど、クジラすら殺すほどの攻撃力やどう猛さを持っている生き物として紹介されています。
また、特殊な力として口から大量の水を吐き出すことができるとされているので、この力に目を付けた人物が現れました。
それが戦国時代の麒麟児である織田信長です。
シャチとシャチホコは違うの?
シャチホコとシャチは同じ存在です。
漢字で書くとシャチは『鯱』となりますが、シャチホコも『鯱』となります。
ただし、シャチホコは『魚虎』とか『鯱鉾』と記載されることもありますので注意しましょう。
また、別の意見として『シャチホコはシャチが鉾(ほこ)のように上にそり立っている姿からシャチホコとなっている』というものもありましたので、こちらの意見で解釈するとわかりやすいかもしれません。
シャチとシャチホコは同一の存在ですが、そのありようからシャチとシャチホコを使い分けていると覚えておきましょう。
筆者のWindows10に最初から搭載されているIMEでは、『シャチ』で変換すると『鯱』は出てきますが、『シャチホコ』で変換すると『鯱』は出てきますが、『魚虎』と『鯱鉾』は出てきません。
やはりこの『魚虎』とか『鯱鉾』はマイナーなのでしょう。
なんで天守閣にシャチホコがいるの?
天守閣の左右両方に一対のシャチホコがいる理由は、『織田信長が設置し始めたから』となります。
このシャチホコは水を吐き出す能力があるとか、日を水で打ち消したという伝説があるとされているため、木造建築が主体のお城を火事から守るという願掛けで設置されたと考えられています。
しかし、かっこいいものや目新しい物好きの織田信長なので、火事除けの守り神としての側面だけではなく、かっこいいからという理由で設置した可能性も非常に高いでしょう。
特に、尻尾を思いっきり立たせているさまにはこだわりが感じられますので、絶対に見た目を意識して作られたと思います。
昔は権威の象徴として城を建築することも多々ありましたので、己の威厳を見せつけるためにもこのような空想上の生き物もうまく取り入れたのではないでしょうか。
この織田信長に非常に強い影響を受けた豊臣秀吉は、伏見城や大阪城にも立派なシャチホコを設置して、これ以降は全国レベルでマネする人が続出したのです。
ただし、第二次世界大戦において日本は空襲で焼け野原になってしまった場所が非常に多く、焼け落ちることなく昔の姿のままシャチホコが現存しているというケースは少ないです。
今現在お城に設置されているシャチホコのほとんどが、戦後に再度作られたシャチホコとなっています。
今でも創建当初から残っているシャチホコはあるの?
織田信長と豊臣秀吉がお城にシャチホコを設置することを流行させたことで、日本全国でシャチホコを設置するというブームが始まります。
その中には天守閣の端っこに固定するのではなく、屋根瓦の一部にシャチホコをくっつけた瓦製のシャチホコもあったのです。
しかし、重すぎるとバランスが保てないので中は空洞になっています。
ただし、軽量化しているこの瓦製のシャチホコははっきり言って非常にもろかったので、現代日本では創建当初から残っている瓦製のシャチホコは、ほとんどないとのことです。
このように数あった瓦製のシャチホコは、耐久性から創建当初から残っているものはほとんどありません。
耐久性がそれなりにあった天守閣左右一対に設置するタイプの大きいシャチホコは、空襲で焼け落ちてしまったものがほとんどなので、創建当初から残っているものは少ないと考えましょう。
数奇な運命をたどった名古屋城の金のシャチホコの歴史について
日本の建造物の中でも、特に愛されるお城にまつわる歴史というのはしっかりと残っていますが、そのお城の歴史に並ぶぐらいしっかりとした歴史が残っているのが、名古屋城の金のシャチホコです。
名古屋城の金のシャチホコが登場したのは、徳川家康が江戸幕府を開いた後で、平和になった時代からとなります。
金のシャチホコそのものは、財力を表す象徴として建築する人たちがかなりいたようですが、雌雄一対の鯱鉾に、金の総重量200kgオーバーで用いた名古屋城の金のシャチホコは別格でした。
今でいうと約12億円以上が、この金のシャチホコにかけています。
ただし、この金のシャチホコは天災などでボロボロになり、さらに幕末になるとそれぞれの藩主にお金が無くなってしまいます。
名古屋でも赤字補填のために、金鯱から金を剥いでいくようになって、さらにボロボロになってしまいます。
この剥ぎ取りは『金鯱改鋳』といわれていますが、江戸時代で3回も行われたようです。
また、江戸時代が終わると尾張藩最後の藩主である徳川慶勝が、天皇にこの金のシャチホコを献上してしまい天守閣から消えます。
1879年に一応返還されましたが、その後金のシャチホコからうろこを盗む人が大量に出現して、さらに金のシャチホコがボロボロになっていくのです。
そして第二次世界大戦の末期である1945年7月に名古屋で大規模な空襲があり、名古屋城は天守や本丸御殿も燃えてしまい、シャチホコも焼失してしまいます。
戦争が終わって14年が経過した1959年に名古屋城は再建され、象徴であったシャチホコも純金は66kgほど使って復元されたのでした。
このように悲惨な歴史も背負っているのが名古屋城の金のシャチホコなので、歴史とともにセットで覚えておくとなかなか趣が出ると思います。
まとめ
以上、いかがだったでしょうか。
今回はシャチホコの由来や歴史について詳しく解説しました。
シャチホコが有名になったのは、日本人に最強の武将とされている織田信長が原因であるということが判明しました。
先見の明が非常にあった織田信長なので、シャチホコが天守閣に設置されるようになった原因と解説されたとき、すごく納得できたという人も多いのではないでしょうか。
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