戦国時代には明確にわかっていないために、ミステリーとしていろんな人たちが調べ続けている題材があります。
その一つが明智光秀が謀反をした理由は、結局何だったのかというものです。
一般的には、怨恨や恨みが募って謀反につながったといわれますが、2020年現在解明した情報でもその節が最有力なのでしょうか。
様々な情報を集約して、今一番信じられている説は何なのかを見ていきましょう。
明智光秀が謀反をした理由の謎?
結論から記載すると、明智光秀が謀反をした理由はまだはっきりとわかっていません。
昔の映画やドラマや小説では、信長の機嫌を損ねて折檻されたとか、足蹴にされたといったことで恨みが溜まって発生した、いわゆる「怨恨説」が有力でした。
しかしこれは後世の編纂であり、信用に値しないという意見がかなり増えているのです。
代わりに何が有力な説がいくつか出てきましたが、それが本当に正しいのかがはっきりしていないので、2020年の今でも不明なままなのです。
今のところ考えられている説として有名なのは、「怨恨説」「畏怖説」「陰謀説」「野望説」「長曾我部見捨てられない説」です。
この説を一つ一つ解いていきましょう。
そこで、どれが一番しっくりくるのかを判断する必要があります。
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最有力だった『怨恨説』について
昭和や平成の前半まで、頻繁に映画やドラマや小説で用いられてきた説が、この『怨恨説』です。
しかし、昨今の研究によってこの怨恨説は『共感を呼ぶために脚色した俗説』とか、『江戸時代に面白おかしく編纂されたフィクション』という意見が多くなっているので、この説は正しくないという見方をされています。
実際にどのような理由で『怨恨説』が誕生していったのか、今のところ候補となっているのは以下の通りです。
・光秀の母親がはりつけにされた(信憑性は薄い)
・キンカン頭といわれて馬鹿にされた(殺したいほど憎むとは思えない)
・様々な理由を付けて暴力を振るわれた(創作やこじつけの可能性が高い)
・部下を返す返さないで騒動になった(斎藤利三の案件でもめたとは思われるが、これが本能寺の直接的原因であるとは思えない)
・光秀の妻を寝取ろうとした(芸能ゴシップのような行動を規律に非常に厳しかった信長がしたとは思えない)
このようにいろんな理由で怨恨が誕生したといわれておりますが、信憑性に欠ける説や事実ではあったとしても、それが謀反につながるかといわれるとかなり怪しいと思います。
個人的な見解ですが、確かに多少の怨恨はあったとしても、それが最大の原因とはやはり思えないのです。
意外と信憑性が高めの『畏怖説』
晩年の信長は、自分の後継者である織田信忠に後を継がせるために、自分の軍の整理も行っています。
いわゆる不要と判断された人が、肩たたきをされて次々と左遷されていたのです。
信長は役に立たないと判断した場合、どんなに重要な血筋がある人や親戚でも切り捨てることがありましたので、その行動からいずれは自分も排除されると考えて、本能寺の変を起こしたというものです。
個人的な意見として、この説も多少は関係しているとは思いますが、最有力ではないと思っております。
実は黒幕が別にいたという『陰謀説』
この黒幕が他にいて、そそのかされた結果謀反を起こしたという説も、インターネットが発達し始めたころからあちこちで聞かされるようになりました。
陰謀説として掲げられている原因は以下の通りです
・徳川家康にそそのかされた
・羽柴秀吉にそそのかされた
・足利義明にそそのかされた
・朝廷にそそのかされた
・堺の承認にそそのかされた
・イエズス会にそそのかされた
このように様々な黒幕がいると考えられているのですが、すべての黒幕説が確固たる証拠とは言いにくい『状況証拠』になっているのです。
明智光秀が山崎の戦いに臨む前日に書いたとされる手紙に、『義昭を京都に迎えたい』という内容があったことから、一時期は足利義明が黒幕だったという説が最有力という見方をされていました。
しかし毛利に亡命して、権力や軍事力や発言力がほとんど無い足利義明に黒幕になれるような力があるとも思えません。
実は天下を夢見ていたという『野望説』
いわゆる怨恨や畏れではなく、シンプルに天下を狙える状況になったから狙ったという『野望説』も存在しています。
こちらは光秀が本能寺の変を起こす直前に参加した連歌会で、『ときは今 あめが下な(し)る 五月哉』という歌を詠んだのが理由のようです。
これは『土岐氏が天下を支配する五月になった』という解釈も可能ということで、実は天下を狙って行動したという考え方も出ています。
ただし、この解釈は人によって大きく異なり『降りしきる雨のように苦境の中にある五月である』とすると、野望説とは全くマッチしません。
野望説を唱えた人で、特に有名なのが高柳光寿氏でその人の著書である『明智光秀』には、光秀も天下を欲しがったと記載してありますが、どれだけ天下を望んでいたのかははっきりと見えてこないので、この説も何とも言えない状況にあるのです。
強いつながりからくる『長曾我部見捨てられない説』
かなり新しい説なのですが、実は最有力ではないのかといわれているのが、明智光秀と長曾我部との関係性にまつわる説です。
わかりやすく記載すると、明智光秀は四国の大名である長曾我部元親と結びつきが強く、信長による四国攻めを避けるためにいろいろと奔走していました。
しかし信長が長曾我部にした約束である『四国切り取り次第(とれるだけ自分の領地にしたらいいという許可)』を突然破って、一部を返すように命令したことにあるとされているのです。
明智光秀の重臣である斎藤利三は、長宗我部元親の親戚にあたるために、個人的なつながりも強かったのですが、四国の大名であった三好氏を巡る処遇の変化によって、状況が変わってしまったのです。
明智光秀も個人的に長曾我部家が同じ土岐氏の一族だったので、親近感もあったと思われます。
もともと敵対していた三好家の一族である三好康長は、どうやら織田家での立ち回りがうまく信長に気に入られていたので、この三好の『三好氏発祥の地と言われる阿波が欲しい』というお願いを聞いた可能性が高いのです。
長曾我部元親は『切り取り次第』があるために、もともとは三好康長の本領である阿波美馬も、1580年に切り取ってしまいます。
その後に『三好氏発祥の地と言われる阿波が欲しい』と信長がねだられて、それに従い長曾我部元親との約束を破る形になったといわれております。
この約束を破ったのが、本能寺の変が始まる1年前の1581年です。
このことから、信長に対する怨恨が強まったという意見が多数あるのです。
まとめ
以上、いかがだったでしょうか。
今回は明智光秀が謀反をした理由について調べてまいりました。
色んな説が発見されているので、怨恨説オンリーではないという意見が主流になっていますが、個人的には怨恨説を含めていろんなことが重なって、裏切りに走ったと考えています。
特に、四国の長曾我部との約束を破ったあたりが、確実に影響していると思えてしまうのです。
昔は今よりもはるかに血のつながりを大切にしていたので、同じ土岐氏の一族だった長曾我部の約束を破ったことは、想像以上の裏切りに感じたと思われます。
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