浅井長政はなぜ裏切った?本当の理由は何?

戦国時代の情報は、様々な研究や文献調査によって判明した事柄が多数存在しております。

今回はその中でも浅井長政がなぜ裏切りを行ったのかを徹底的に調べ上げて、2022年1月現在の納得できる結果を提示したいと思います。

浅井長政はなぜ裏切ったのか、個人的にも非常に気になりますが、真実は明らかになっているのでしょうか。

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浅井長政と同盟を結んだのはいつから?

浅井長政は信長の妹である『お市』と結婚して、同盟関係になったというお話はかなり有名ですが、この同盟関係が始まったのが一体いつからなのかを知っている人は少ないでしょう。

というのも、この同盟関係が始まったのはいつなのか、様々な説が存在するからです。

筆者が調べた限りだと、1561年1563年1564年1565年1567年1568年とバラバラでした。

お市の方が生まれたのが1547年とされていますが、戦国時代は14歳で結婚するのは珍しくもありませんし、当時の織田信長の状態を見た限りだと、1568年に同盟を結んでもおかしくありません。

個人的な意見となりますが、織田信長が完全に尾張を統一したのが1565年で、美濃を陥落させたのが1567年となっているので、この大仕事が終わった1567年1568年浅井家と同盟を結んだのではないのかと推測しています。

1568年足利義昭を連れて織田信長が上洛を開始する年でもありますので、そのための地盤固めとしての行動だと考えると色々としっくりくるのです。

しかし、将来を見越しての行動力はすさまじいのが織田信長なので、上洛の道筋を先に考えて1561年には同盟関係にあったと言われても納得できてしまいます。

浅井長政が裏切った理由は?

織田信長が朝倉討伐の際に、浅井長政が離反し一気にピンチに陥ったというお話を知っている人は多いのですが、この裏切った理由となると嘘か本当かわからない情報が色々と錯綜しています。

今でも様々な説が紹介されているので、それらの説を1つずつ掘り下げて生きましょう。

色んな情報を集めた上で、個人的にどの説がどれだけ有力か、裏切りにどれだけ関わっているのかも判定していきたいと思います。

何の相談もなく朝倉攻めを行ったから? 

これは正しいという意見もありますし、間違っているという意見もあります。

個人的に集めた情報では、最終的にこの説が裏切りに繋がっているということも加味して、信憑性は低いと思います。

しかし朝倉討伐を行う時には、すでに織田信長は諸侯を呼んで大義名分もある状態であり、幕府朝廷も指示してる完璧な状態にありました。

当時の朝倉家は、寝返りした上で領土を奪ったり、将軍家のヘルプを無視したりして、非常に嫌われる存在になっていたため、はっきり言って攻められて当然の状態にあったのです。

つまり、この状態で浅井長政が裏切った場合は、朝廷や幕府を裏切ったということになりますので、仮に裏切りに成功して織田信長を討ち取ったとしても、代償が非常に大きい状態と言えます。

浅井長政はその事実を確実に知っていたと思いますので、『何の相談もなく朝倉攻めを行って許せない!』という感情のみで、織田信長を裏切るのはあり得ないのではでしょうか。

朝倉家と浅井家には強い繋がりがあったから? 

昔の文献では、この『朝倉家浅井家には強い繋がりがあった』という説が、最有力とされることが多かったのです。

しかし、最近の文献を見ている武将マニアや歴史家の方々は、浅井朝倉累代と朝倉家は強い繋がりは無かったという意見すらあるのです。

強い繋がりがあったために、結婚の条件に『朝倉との不戦の約定』があり、それを織田信長が破ったから裏切ったという説が有力とされていたのですが、そもそもこの約定も怪しいとされています。

これらの情報を踏まえた上で個人的に言えることは、この説の信憑性は低いいう事です。

織田信長の政権構想に危機感を覚えたから? 

織田信長は戦国時代の人間の中では非常に斬新な考え方を持っており、旧来の考え方を破壊するような行動も多々行っておりました。

朝倉責めの時の織田信長は、所領給与によって家臣団をまとめるという仕組みをある程度確立しており、昔ながらの国人衆による地域連合という図式をすでに打ち壊していました。

浅井家は国人衆との関係性をうまく構築することで統治していたので、独特なあり方を強烈に示し続けていた織田信長の考え方に、ついて行けなかったのではないのかという意見もあります。

あくまでも北近江の統治者としてありたい浅井家と、天下布武を掲げて国盗りを行っていた織田信長に付いていくことができず、討てる機会が訪れたので裏切ったと考えるのもありと言えるでしょう。

そのため、信憑性高いと思います。

部下と隠居した浅井久政を抑えられなかったから? 

この『部下と隠居した浅井久政を抑えられなかったから』というのが、個人的に最も信憑性がある説だと思います。

隠居していた久政は、かなりの発言権と権力があり、織田反対派の筆頭であったと言われております。

元々独立色が強く自分たちの領地を守りたいという考え方が、圧倒的に強かった国人衆集団が浅井家だったのです。

しかし、この人達は自分たちの存在を脅かすような存在である織田信長は、恐怖の対象であり討てるのならば討ちたいと考えていた可能性は高いでしょう。

浅井長政はかなり知性的な人間であったと様々な文献で見られますが、家臣すべてを抑えきれていたわけではないと思います。

また織田信長が、何の相談もなく朝倉攻めを行ったという事実も重なってしまい、このような裏切りに繋がってしまったのだと思います。

これは個人的な見解になってしまいますが、朝倉攻めははっきり言って朝廷の肝いりの戦争となっているので、大義名分は100%織田信長側にあります。

その状態を全く理解していない人達ならば、通常ならば考えられないような暴挙に出たっておかしくないでしょう。

立場が強い家老達は、反織田派であったという情報もありますし、国人達反織田派が多かったとされています。

さらに、浅井長政は一時期家臣を味方に付けて、弱腰な外交をしていた浅井久政隠居させたという過去があります。

なので、たとえ良識があって本音ではNOと言いたかったとしても、言った瞬間に隠居させられるか殺される可能性があったと考えられます。

戦略としては、はっきり言って下策中の下策な裏切りではありますが、戦術としては完璧な裏切りだったので、織田信長もびっくりしたことでしょう。

まとめ

以上、いかがだったでしょうか。

今回は浅井長政が裏切った本当の理由を探ってみました。

色々と調べて見た結果、やっぱり裏切った理由は家臣達を制御できなかったというのが大きかったと思います。

当時の家臣あらため国人衆というのは本当に厄介で、力を持った国人衆が複数人団結すると城主でも面倒な状態になってしまうというのは良くあることだったのです。

それを考えると三河武士という著しく面倒な集団をまとめ上げることに成功していた徳川家康は、ものすごく優秀であったということがわかってくるのです。

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