皆大好き伊達政宗には色んなエピソードがありますが、その中には是非とも多くの方々に知ってもらいたいエピソードや今になって別の説が登場しているエピソードもあるのです。
そこで、今回は伊達政宗と不仲説が根強く残っていた母義姫とのお話を中心に記載して参ります。
本当に母義姫とは不仲で憎しみあっていたのでしょうか。
政宗の母親の義姫はどんな人物?
伊達政宗の母親は、伊達政宗を毒殺しようとした人というイメージが圧倒的に強すぎるので、多くの方々には陰湿な人というイメージがあると思います。
色々と調べた結果、個人的に思ったことは『ものすごく肝の据わった女傑』です。
一般的には、『伊達政宗が嫌いで弟の伊達小次郎に伊達家を継いでもらうように仕向けた人』という扱いをされていますが、その人物像はどうなっているのかを見ていきましょう。
色々とエピソードがある人物なので、その中からも性格がわかるようなものを抜粋していきます。
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駕籠で戦場へ突撃&説得
義姫は、『奥羽の鬼姫』と呼ばれるほどの男勝りで気丈な性格をしていた女性ですが、その渾名も納得するようなエピソードもかなり残しています。
その中でも強烈なのが、駕籠で戦場へ向かったというエピソードです。
義姫は元々最上家の人物であり、兄は伊達政宗と敵としても味方としても戦うことになる最上義光です。
この最上義光に対して夫の伊達輝宗が、山城主の上山満兼と連合して攻め込んだのです。
しかし伊達家が最上家と戦争をしてほしくない義姫は、駕籠で陣中を走り抜けて夫に停戦を呼びかけます。
この戦では兄である最上義光の方が不利だったので、兄の危険を察知しての行動でしょう。
伊達輝宗と最上義光のこの戦は1578年のころであるため、伊達政宗はまだ11歳で元服前です。
この頃は兄妹や親子であっても殺し合う世界だったので、同じような状態に発展した姫はたくさんいましたが、自ら行動して戦場に突撃し説得したという姫はなかなかいません。
輿に乗って両軍の間に居座り戦争を止める
伊達政宗が当主になると政宗は東北を手に入れるために、ひたすら攻撃的になって戦争をするようになります。
その結果、敵を作りすぎたのか1588年には多方面から攻撃を受けるようになってしまうのです。
1588年の戦は元々北方の大崎氏家中の内紛に介入したら頑強な抵抗と一部家臣の離反に遭遇し敗北して、さらには伯父の最上義光が大崎側に立って参戦したため、『大崎の合戦』に発展したという背景があります。
さらにさらに伊達政宗を憎んでいた蘆名氏・相馬氏が侵攻して『郡山合戦』が発生し、そちらでも立て続けに敗北してしまい絶体絶命のピンチになるのです。
このピンチに立ち上がったのが伊達政宗の母親である義姫で、兄の最上義光と伊達政宗が対陣している間に輿で突撃をして、さらには停戦を受け入れるまで居座るというすさまじい行動に出ます。
その結果伊達側も最上側も攻撃できなくなって、2カ月以上にわたるにらみ合いの結果和睦することになるのです。
本当に義姫が政宗を暗殺しようとしたのか?
これもいろんなお話が錯綜していますが、筆者は義姫の政宗暗殺は存在しなかったのではないかと思っています。
まず、この義姫の政宗暗殺はどこからきているお話なのかというと、伊達家の正史『伊達治家記録』に、お祝いとして母が用意したお膳を食べたら毒が含まれており、解毒剤を飲んで一命を取り留めたという記載があるためです。
これが一般的に知られているエピソードとなっているので、多くの方々にとって母親とは不仲であり暗殺されるような関係であるという認識になっています。
しかし、色々と歴史を調べてみると『絶対暗殺なんてしていないよね?』と感じてしまうようになってしまったのです。
その疑問点をまとめていきます。
疑問点その1・暗殺首謀者容疑がかかったのに4年間も一緒にいた
疑問点その1ですが、仮に義姫が暗殺の首謀者だった場合は弟である小次郎が手討ちにされて直ぐに出奔させられるはずでしたが、なぜか4年後に出奔しています。
仮に義姫が首謀者だった場合4年間も犯人と一緒にいたのですから、まずありえないと考えてしまったのです。
また、実の息子を助けるために戦場に突撃していったというエピソードからもあるように、政宗のためにあそこまで身体を張れる人が毒殺をするとは思えません。
疑問点その2・失明してからも政宗の教育はしっかりとしていた
伊達政宗が片目を失明したのは5歳の頃です。
その頃から嫌われて疎まれていたと言われていますが、政宗は父親である輝宗には溺愛されていたと言われております。
実際に跡取りとしての英才教育をかなり必死に行っていましたが、父親だけが溺愛して母親が著しく毛嫌いするというのは個人的にもちょっと考えにくいです。
疑問点その3・政宗と母義姫の仲良しな手紙が多数ある
個人的に決定的な仲が良いと感じた証拠が、政宗と母義姫の仲が非常に良いことを表す手紙が大量に見つかっていると言うことです。
たとえば、政宗は1回目の朝鮮出兵に参戦しているのですが、そのときに母親に会いたい的な手紙を日本に向けて出していますし、義姫も息子政宗の支援のためにお金を送ったりと何かと活動していたのです。
お金を受け取った政宗がお礼に色々と探ったのですが、珍しい物が見つからなかったので木綿を送ったというお話になります。
この手紙のやりとりがあったのが、毒入り事件があった1590年の3年後である1593年になります。
毒殺未遂事件があった母親とこんな手紙のやりとりをするとは思えません。
疑問点その4・政宗が母親を気遣うエピソードが他にも多数ある
政宗毒殺未遂事件の4年後である1594年に、兄がいる最上家に母義姫は戻ることになります。
その最上家が関ヶ原の戦いが勃発した1600年に、上杉景勝と直江兼続が率いる軍勢との戦が発生します。
俗に言う『長谷堂の戦い』です。
この戦いでは、伊達政宗と最上義光が手を組んで戦うことになるのですが、片腕でもある片倉景綱は、政宗に最上勢と敵軍が戦ってある程度疲弊してからの動けば良いと言われました。
しかし、母親を助けるべく援軍を急遽派遣したと言われているのです。
また、最上家は義光がいなくなると一気に衰退することになり、母義姫も行くところを失います。
1623年のことでしたが、行き場を失った義姫を伊達政宗は快く受け入れたのです。
このようなエピソードがいくつかあるので、母親が毒殺しようとした人物というイメージが一気に失われました。
義姫の毒殺そのものが政宗との芝居だった可能性も?
このように毒殺しようとした人というイメージが、色々と調べることで無くなってしまうのですが、調べていくと面白い説もありました。
それは毒殺されたという情報を流したのは事実だけど、それは伊達政宗を不満に思っている武将をあぶり出すための策であり、政宗が母親と一緒に謀を行ったという説です。
また、弟の伊達小次郎を斬殺したと言われていますが、この弟も生きているという説があります。
それは、こちらの『大悲願寺「伊達小次郎は生きていた!? 政宗白萩文書と御朱印」 : 群雄行記-鄙の凡人周遊録-』を見て頂きたいのですが、なんと伊達輝宗公の二男が13世住職・海誉上人の下でお弟子さんとなって生きていたと言われているのです。
仮に謀で弟を殺したように見せかけて、不穏分子を炙りだしていたという説が本当ならば、かなり面白い歴史と言えるでしょう。
まとめ
以上、いかがだったでしょうか。
今回は伊達政宗の母親である義姫についての情報をまとめました。
このようにエピソードをまとめて見ると、なかなかの人物であったことがわかります。
こうやって見てみると母親と政宗の仲はとてつもなく良好だったように見えるので、毒殺未遂事件も本当かどうかが非常に怪しいのです。
個人的には限りなく白に近い灰色だと思っております。
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