源義経は二人いた説⁈源義経がチンギスハーンだった⁈都市伝説や噂とは!

日本における悲劇のヒーローとして最も有名なのが源義経ですが、この源義経には様々な噂や都市伝説があり中には信じられないようなお話すらあります。

今回はフビライハーンは源義経の生まれ変わりという、とんでもない説も含めた上で、様々な噂や都市伝説について詳しくご紹介してまいります。

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源義経の基本的な歴史のおさらい

ここでは日本史の授業で学ぶような源義経についての歴史を簡単におさらいします。

源義経は2020年9月における日本史では、1159年に誕生し1189年でなくなった平安時代末期の武将で、鎌倉幕府を開いた初代将軍である源頼朝は異母兄に該当します。

幼年は『牛若丸』や『遮那王』と呼ばれて、鞍馬寺に預けられ剣術や戦術を学び、『武蔵坊弁慶』などの配下を得ます。

後に源頼朝に手を貸す形で治承・寿永の乱に参戦し活躍、最終的には壇ノ浦の戦いで勝利して平家を滅ぼす立役者となります。

しかし、滅ぼした後は兄である頼朝とは対立してしまい、朝敵として扱われるようになります。

最大の原因は許可無く官位を受けたことにあるとされておりますが、それ以外にも平氏の捕虜である平時忠の娘をめとったことで、平氏の地位を受け継ぐと推察され敵対関係になってしまったのでしょう。

最終的には正妻と子供を伴って、現在の岩手県平泉にまで逃げることになるが、協力者でありかくまってくれていた藤原秀衡が病没すると、後を継いだ藤原泰衡が裏切り、義経主従は殺害され義経は自害したというお話です。

享年は31と非常に短いことがわかります。

この悲劇的な最期が日本人的に昔から非常に注目度が高く同情され、『判官贔屓(ほうがんびいき)』という言葉が誕生して、様々な噂や都市伝説や逸話も誕生するのです。

今回はこの様々な噂や都市伝説や逸話が主役となります。

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源頼朝の都市伝説や噂を見ていこう!

それでは具体的に源頼朝にまつわる都市伝説や噂や逸話をいろいろと見ていきます。

中にはびっくりするようなものもありますので、お気に入りの情報が必ず見つかることでしょう。

義経は2人いたのか?

これはどうやら事実のようです。

義経が二人いたという噂がありましたが、一人はよく知られている悲劇の英雄源頼朝、もう一人が吾妻鏡に登場する山本義経です。

山本義経は戦の天才であり、木曽義仲に味方した英雄でもあります。

木曽義仲に味方した『相伴源治』の十一名の中に『山本兵衛尉義経』という記載がありますが、この人物こそが山本義経のようです。

この山本義経なのですが、どうやら源義光の血を引いているとのことなので、源義経と記載されることもあるようで、ここから二人の義経がいると噂されるようになったと考えられているのです。

ただし、この山本義経は木曽義仲との戦いの途中から登場しなくなってしまいます。

義経が実は英雄じゃなかったのは本当?

これは何とも言えませんが、源義経の逸話や伝説は後の創作であり本来ならばそこまで歴史的な偉業を成し遂げた存在ではないという意見もあるのは確かです。

一説には『英雄として持ち上げられていた源義経は、実は戦もへたくそで英雄的活躍はしておらず、もう一人の義経である山本義経の天才的な戦上手な部分をくっつけられたことでそういう存在になっている』というものもあるのです。

いわゆる二人の義経が合体して誕生したのが、多くの方々のイメージに合致する今の義経像となります。

義経がチンギスハーンという説は本当?

これは何とも言えませんが、個人的にはありえないと思っております。

しかし、『義経がチンギスハーンである』と思ってしまうような理由はかなりたくさんありますので、信じてしまう人がたくさん出るのも納得できる噂なのです。

このチンギスハーンが源義経であるという説を大々的に発表したのは、1823年に来日したドイツ医師のシーボルトなのです。

シーボルトが帰国後に発表した日本研究の集大成『日本』で、源義経がチンギスハーンであると公表しています。

この説は江戸時代初期の朱子学者である林羅山の『義経は蝦夷まで行き子孫まで残した』という説や、江戸時代中期の朱子学者である新井白石の『アイヌ民話で登場する神オキクルミ神と大男の従者サマイクルは源義経と武蔵坊弁慶である』という説とセットで扱われることで、実は生き延びてどこかで活躍していたのではないのかという説が民衆に一気に広まります。

大正時代には牧師でアイヌ研究家である小谷部全一郎が記載した『成吉思汗ハ源義経也』が大ヒットしたことで、大正時代にも源義経はどこかで生きて活躍してたという説が浸透していったのです。

シーボルトも何の根拠もなくこのような『チンギスハーンは実は源義経だった』という説を発表したのではありません。

大きく分けていくつかの根拠がありました。

それはチンギスハーンが活躍し始めた年代は、義経が死んだとされる1189年以降であること、そしてチンギスハーンが良く用いていた武器は長弓であり、これは中国はモンゴルには存在せず日本独自のものであることです。

そしてチンギスハーンの『ハーン』という言葉は日本の役職名を表す『カン)』という言葉からきていると考えられることというものです。

また、チンギスハーンの別名は『クロー』であり、この『クロー』は義経の官職であった『九郎判官』からきているという説もあります。

もともとモンゴル民族が文字を持たない民族で、チンギスハーンの文献もほとんど残っておらず、チンギスハーンは生年や前半生が不明すぎる点が多すぎるので、否定する材料が少なすぎるというのも大きいでしょう。

一応チンギスハーンは1162年に生まれて1227年に死亡したとされていますが、これも諸説あるのではっきりとした情報ではないのです。

このようにチンギスハーンが、源義経であるという説を後押しするような理由や証拠はたくさんあります。

そもそもチンギスハーンの資料が少なすぎて否定できないのが、今でもあやふやな状況を作り続けている最大の原因なのだと思います。

義経の生存説はどうなっている?

源義経が平泉で死亡しておらず、どこかで生き延びているという説はチンギスハーン説以外にもたくさんあります。

例えば、義経は死亡しておらず蝦夷のどこかで生存して、最終的に子孫がアイヌの棟梁になったという説、蝦夷のたどり着いた後にアイヌの創造神である『オキクルミ』として活躍したという説があります。

さらに蝦夷に脱出した後に、タタールを支配していた金朝に入国して生き延びたという説、タタールに渡った後に生き延びて子孫が繁栄した結果、その子孫が清国を設立したという説など様々なものがあるのです。

このような説が出てしまう背景には、父藤原秀衡の遺命に背いて義経を討伐した藤原泰衡が源頼朝に伝えるために出した報告が、あまりにも遅すぎたということもあるようです。

本来ならば、すぐにでも報告しなければいけないところを、なぜか館を襲撃してから22日後に報告しているため、その時間で逃がしたのではないのか?と推測する人が後世でたくさん出現することになりました。

まとめ

以上、いかがだったでしょうか。

今回は源義経にまつわる都市伝説や噂をいろいろと集めてみました。

こうやって調べてみると、生存説にもいろんな種類があってかなり面白かったと思います。

特に驚きだったのが日本史に必ず出てくるシーボルトがチンギスハーンが源義経であるという説を提唱したことです。

これにはびっくりした人も多いと思います。

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