源為朝(鎮西八郎)の逸話について!平安時代のガンダムとは?

歴史上の偉人の中には、とんでもない逸話が存在する偉人も数多く存在します。

今回はその中でも、平安時代のガンダムというとんでもない異名を持っている『源為朝』について詳しく解説し、どのような人物であったのか、なぜガンダムという名前で呼ばれるようになってしまったのかをご紹介いたします。

あまりにもびっくりする逸話だらけなので、一度聞いたら絶対に忘れない存在となるでしょう。

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源為朝についての紹介

源為朝は保延5年(1139年)に誕生し、嘉応2年(1170年)に自害した平安時代の猛将で、平安時代を代表する英傑である源頼朝と義経兄弟の叔父に該当します。

父親は源為義で、母親は現在の大阪市東淀川区江口にいたとされる遊女という記録があります。

最大の特徴は、その体型で男性の平均身長が160cm程度だった平安時代に、2mを超えた巨漢だったとされております。

その体格でさらには乱暴者という性格も相まって父親にも、もてあまされたという存在で、数多くの逸話を見ると三国志に登場する呂布を彷彿とする人も多いようです。

ただし、乱暴者過ぎたために13歳で勘当されて九州地方に追放されます。

その後肥後国阿蘇郡の平忠国の婿となったが、気性の荒さは変わらずむしろ腕力に磨きがかかり追放された九州を3年かけて平定してしまうのです。

このとき『鎮西八郎』を名乗っているので、こちらの名前でもかなり有名となっています。

あまりにも大暴れ過ぎたため出頭を言い渡されたが、それをもちろん無視します。

しかし、無視し続けた結果父が解官されてしまい、その報告を聞いて上洛することになるのです。

その後崇徳上皇後白河天皇の衝突となる保元の乱に父と共に崇徳上皇側につき、異母長兄の源義朝は後白河天皇側について戦うことになります。

ここでびっくりするぐらいの逸話を作りまくり、一気に超有名人になったのです。

しかし歴史を知っている方なら、もはや推測できているように、戦では負けてしまい逃亡する羽目になります。

最終的には逃亡中に病にかかってしまい捕縛されてしまったのですが、すさまじい戦果をあげているために、惜しまれて処刑はされませんでした。

しかし肘を砕かれ、二度と弓を射ることができない状態にされてしまい、伊豆大島に流刑されてしまいます。

その後治らないとされていた傷がなぜか癒えてしまい、その後大暴れを再開して伊豆諸島を所領にしてしまいます。

しかし暴れすぎてしまったので、15年後に討伐するための軍が派遣されて圧倒的な数を前にして戦をすることなく諦めて自害してしまいます。

要するに、大きな戦に参加したのは保元の乱のみなのですが、あまりにも衝撃的な逸話を残してしまったために、たったの1戦で超有名人になってしまった偉人なのです。

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源為朝の逸話とは?

このように保元の乱で大活躍し、すさまじい逸話を多く作った源為朝ですが具体的にどれだけの逸話があるのかをまとめてみました。

・成人男性の平均身長が160cmの時代に2mを超える大男だった
・左腕だけ12cmほど長かったという逸話があり、特殊な体格故に弓取りとしての才能が極まっていた
・13歳で追放されてわずか3年で、九州地方の豪族を従える巨大勢力にまでのし上がった
・勝手に日本の律令制下の令外官である追捕使(ついぶし)を名乗る、昔の九州地方である『鎮西』の追捕使として『鎮西総追捕使』を自称していた
・勝手に『鎮西総追捕使』を自称していたが、九州地方の代表として『鎮西八郎』の名前も自称していた
・鷹の目のように目が鋭かった
・腕力も膂力も圧倒的に優れていたため、大人5人で使うような大弓を1人で使いこなしていた
・戦の天才で敵対していた兄義朝が夜襲してくることを予言していたが、周りの人達は信じなかった
・平清盛の郎党であった伊藤景綱と子供の忠景忠直が喧嘩を売ってきたが、「清盛も雑魚なのに清盛以下の雑魚に興味はない」と言って、弓を放ったら忠直の体を貫き、更に忠清の鎧の袖に突き刺さった
平清盛がこの力にびっくりしてドン引きし、嫡男の平重盛が挑もうとしたのを必死で止める
・弓の命中精度も神がかっており脅して源義朝の兜に矢を当てる
・大庭景義・景親の兄弟が果敢に挑むも一瞬で返り討ちにされる
・暴れ回る源為朝のせいでなかなか決着がつかなかったので、最終的には禁じ手である火攻めを行うために、後白河天皇に勅許を求めて、火攻めにて戦を終わらせた
・捕まった後は流刑されるが、そのときに弓を二度と引けないようにするためにヒジを砕かれるか腕の腱を切られるという処罰を受けたが、なぜかある程度回復し再度弓を引けるようになる(それでも腕力や膂力はある程度下がったとされる)
・傷によって威力が出なくなったとされるが、腕がさらに伸びたことで命中精度が向上してむしろたちが悪くなる
・流刑で伊豆大島に流された後に、鬼の子孫がすむとされる鬼ヶ島(おそらく渡来人が多かった土地で、身長が大きい人が多かった)攻め落とす
・最終的に伊豆七島を統一してしまう
・圧倒的な討伐軍を前に自害を決めるが、死ぬ前に放った一矢が兵士300人を載せる船を轟沈させる
・船を沈めて大満足したようでその後に切腹する
・『切腹せずに最後まで抵抗していたら、勝てたのではないのか?』と後の歴史家の多くが突っ込みを入れる
・実は琉球に渡っていたという噂があり、源為朝の子供が琉球王の『舜天』になったという噂がある

 なぜ源為朝がガンダムなの?

このようにぶっ飛んだ噂だらけの源為朝ですが、なぜガンダムと呼ばれるようになってしまったのでしょうか。

ガンダムと呼ばれるようになってしまった最大の理由が、2012年の大河ドラマになった『平清盛』が大きく関係しています。

このドラマの中でも源為朝がちょっとだけ出てくるのですが、当時あった公式サイトの人物紹介の項目で源為朝は、『平安時代のモビルスーツ』というぶっ飛んだ紹介のされ方をしていたのです。

モビルスーツというのは、機動戦士ガンダムにおける架空の兵器分類の1つであり、わかりやすく解説すると人が乗り込んで操作するタイプの大型ロボットで、代表的なモビルスーツはザクガンダムとなります。

NHKが源為朝をこのモビルスーツ扱いしていたのです。

しかも、撮影現場ではモビルスーツではなく『平安時代のガンダム』として扱っていたようで、通称『ガンダム』で通じていたという情報もあります。

このような扱い方をされてしまったことが、ネット上でもかなりうけてしまい、『平安ガンダム』とか『平安時代の最強のモビルスーツ』といった渾名が定着してしまいました。

ちょっとタイムリーな話になりますが、あまりにも多くの逸話から地元ではあがめられる存在となった源為朝公は、『病気だろうが疫病だろうが射殺して退散させる力がある』として、その力にあやかろうという動きがあるようです。

かつて日本で天然痘が流行したときにこの動きがあったようですが、新型コロナウイルスが猛威を振るっている現代においても通じるものがあるので、為朝を祀った三浦半島にある疱瘡神社は参拝者が増えていると言われています。

まとめ

以上、いかがだったでしょうか。

今回は平安ガンダムという異名が付いてしまった源為朝について詳しく解説しました。

源為朝という人物を深く知れば知るほどかなりすさまじい存在であるということがわかります。

その逸話の多さや伝説の多さからお墓や祀っている神社までできているので、気になるという方はそちらもチェックしてもらいたいです。

個人的にも新型コロナウイルス騒動が収まったら、為朝を祀っていると言われている三浦半島の疱瘡神社に行ってみたいと思います。

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