コロナ禍により2年ぶりの開催となりました、2021年度の全国高校野球選手権大会ですが、この甲子園球場にまつわるお話やちょっとした疑問点というのはたくさんあります。
歴史ある甲子園について、調べてみると次々と面白い情報に遭遇できるのです。
そこで今回は、この甲子園にまつわる興味深い様々なお話をご紹介します。
あの甲子園球場を取り巻く『蔦の葉』はいったいなぜなのか、土はどこの土なのか、そもそも土を持ち帰るようになった理由は何なのか、ご紹介いたしましょう。
甲子園の土はどこから持ってきている?
(筆者の甲子園の土)
甲子園で必ずある光景が、負けたチームが甲子園の土を持ち帰ることです。
この甲子園の土なのですが、実は鹿児島県志布志(しぶし)市の『黒土』と京都府城陽市の『丘砂』をブレンドして作られた特別な土となっています。
ただし黒土は鹿児島県志布志市以外に、岡山県日本原・三重県鈴鹿市・大分県大野郡三重町・鳥取県大山などの、様々な土も使っているとのことなので、集めている場所も多岐にわたっております。
甲子園の土は黒土の成分がポイントで、黒土の主な成分は火山灰なのです。
黒土と砂のブレンドの具合を変えることで、季節や天候に対応しているという情報もあり、いかに阪神甲子園球場の黒土が野球をしやすい環境に整えられているのかがわかります。
甲子園の土は長い年月研究をした結果、誕生した特別な土なのです。
甲子園の土は野球のボールを見やすく、しかも長丁場や悪天候にも耐えられるグラウンドに仕上がっているのです。
これは長年研究し続けたグラウンド責任者も務めたことがある、石川真良氏の貢献が大きいといわれております。
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甲子園の土を初めて持ち帰った選手は?
これは諸説あります。
その中でも最も有名なのが、打撃の神様といわれている川上哲治氏が高校生だったころのお話です。
川上哲治氏は1937年の第23回大会に、熊本工の投手として参加し、決勝まで進んだのですが、そこで敗れて準優勝となってしまいます。
試合終了後に川上哲治氏は、甲子園の土をユニフォームのポケットに入れて持ち帰り、自校の練習場のまいたというエピソードです。
これが一番有力視されているのですが、川上哲治氏の長男がこの説を否定しているので、信憑性はちょっと薄くなっています。
他の説としては、1946年の第28回大会で東京高等師範附属中の佐々木迪夫監督が、準決勝で敗れてしまったときに、各ポジションの土をまた返しに来るという意味を込めて、持ち帰ったというエピソードがあります。
ただし、この頃は戦後まもなくということで、甲子園球場が使える状態にはなく、使った球場は阪急西宮球場だったので、甲子園でのお持ち帰りとはちょっと言えないというおまけもつきます。
それでも新聞で記録されている情報ですので、間違いなく確定と言える情報と言えるでしょう。
これが最古のお持ち帰りならば、このエピソードが由来となっていると思います。
他にも1949年の第31回大会において、準々決勝で福岡県代表の小倉北の投手だった福島一雄氏が、マウンドの土を無意識でお持ち帰りし、大会後に大会役員から手紙で指摘されたことで発覚したというエピソードもあります。
個人的には、1946年の第28回大会で東京高等師範附属中の佐々木迪夫監督のエピソードが、甲子園球児が甲子園の土をお持ち帰りするようになったという最大の理由になったと考えています。
いつか返しに来るという意気込みで土をとるという考え方が、個人的にもとっても好きです。
甲子園の土を持ち帰る意味を再確認しよう!
甲子園の土を持ち帰る理由はなんとなくわかっていると思いますが、今一度どのような理由があるのかを整理していきましょう。
実はいくつかの理由がありますので、新たな発見も間違いなくあると思います。
負けた悔しさを忘れないため
これが最もわかりやすく、多くの方々が思っている理由でしょう。
甲子園で負けた悔しさを忘れないために、土を持ち帰って練習するのです。
甲子園の土を見るたびに悔しさを思い出すというのは、ある意味四字熟語の『臥薪嘗胆』に近い意味があると言えます。
甲子園に出場したという記念
これもわかりやすい理由や意味となります。
甲子園の土というのは明確な「甲子園に出場した」という証になりますので、持ち帰れるとうれしいものでしょう。
甲子園球場の土は販売されていないため、これを持っているというだけでも自慢になります。
ただし、この「甲子園球場の土は販売されていない」という部分が悪用されて、メルカリといったフリマアプリなどで大量に転売されるようになっているのが実状です。
日本では命の危機に直結しないような転売は違法ではないので、この転売も犯罪ではないのですが問題であると発言する人が非常に多いのが実状です。
一緒に頑張った部員のため
高校球児は試合に出られる数やベンチ入りできる選手の数は限られており、中にはほとんど試合に出ることができずに卒業することになるメンバーも多数います。
そういった仲間たちへの配慮のために、甲子園の土を持ち帰るという人もいるのです。
自分たちの後輩のため
「自分たちは甲子園の途中で負けてしまったけど、後輩達には優勝してほしい」という気持ちを後輩に伝えるために、甲子園の土を持ち帰るという人もいます。
このケースでは優勝という夢を託すために、持ち帰った甲子園の土は保管するのではなく、母校のグラウンドに撒くという人が多いといわれております。
甲子園が蔦でおおわれている理由は?
これも諸説ありましたが、2019年に大人気番組の『チコちゃんに叱られる!』で紹介されたことで、そちらが通説となっております。
この『チコちゃんに叱られる!』では、甲子園が蔦でおおわれている理由として、「手っ取り早く外国っぽい雰囲気を出したかったから」としているのです。
大正13年に甲子園球場ができたばかりの頃は、実は蔦を用いるという設計思想はなく、コンクリートむき出しの外壁だったのですが、なんとかオシャレな見た目にしたいということで考えた案が『ヨーロッパの古城の外壁のように蔦で覆ってしまうこと』だったのです。
見た目を改良するときに、ヨーロッパの古城の写真があったというのもポイントでしょう。
この蔦は甲子園ができて直ぐに植えられるようになったため、実は1924年に植えられたという歴史があります。
今ある蔦も実はこの当時に植えられた蔦の子孫で、とても歴史のある蔦となっています。
ただし、甲子園球場は2006年に大規模な改修工事があって、その工事の際には蔦も一度伐採されているのです。
それでも、この蔦の苗木は全国の高校生に育てられる形となり、改修工事が終わった後に甲子園に戻されて今も歴史を重ねているという形になります。
まとめ
以上、いかがだったでしょうか。
今回は甲子園にまつわるいろんなお話をご紹介いたしました。
甲子園は歴史のある建物だけに、それにまつわるエピソードもかなり歴史を感じられるお話がありました。
特に甲子園の蔦は外国っぽい雰囲気を出したかったからというのは驚きだったと思います。
個人的な事ですが、筆者も2度甲子園球場でプレーさせて頂きましたが、まさに『聖地』という印象でした。
確かに、ヨーロッパの古い建物は蔦に覆われているので、その雰囲気を出すために役立つとは思います。
しかし甲子園の蔦の姿は、ヨーロッパの蔦の建物と全く異なり、『甲子園独特の蔦の葉』の印象を受けました。
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