独眼竜で東北を代表する武将として非常に人気のある伊達政宗ですが、具体的に何をした人なのかというお話になったときに、すんなりと語れる人は少ないと思います。
そこで今回は筆者が作成した年表を用いつつ、具体的に何を成し遂げてどんな功績を遺した人なのかを記載していきます。
これを見ればどんな一生を過ごしてきた武将なのかがよくわかり、伊達政宗をより好きになるでしょう。
伊達政宗を中心とした年表を見てみよう!
それでは伊達政宗を中心とした年表を見て、具体的にどのような人生を歩んできたのかを確認して行きましょう。
伊達政宗年表に追加する形で、日本でどのような動きがあったのかも簡易的に記載して参りますのでどのような時代の流れにいたのかも見ていってもらいたいと思います。
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年表
・1567年(0歳)
政宗:出羽国米沢城、現在の山形県米沢市に伊達家当主の輝宗の長男として生まれる。幼名は梵天丸
日本:織田信長が美濃の斎藤竜興と戦い勝利して、俗に言う稲葉山城の合戦で斎藤氏は滅亡する
お市の方が浅井長政の元に輿入れする(年代については諸説あり)
松永久秀によって東大寺の大仏殿が燃やされる
・1571年(4歳)
政宗:疱瘡(天然痘)を患い、右目を失明する。
日本:織田信長が比叡山を焼き討ちする(浅井の裏切りと姉川の戦いは1570年)
・1577年(10歳)
政宗:元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。
日本:松永久秀が謀反する
上杉謙信と柴田勝家が戦う手取側の合戦が発生し、上杉謙信が勝利する
織田信長が中国征伐のために羽柴秀吉を派遣する
・1579年(12歳)
政宗:陸奥国磐城三春城城主の田村清顕の娘『愛姫』と結婚する。
日本:上杉家のお家騒動、上杉景虎が自害し上杉景勝が勝利する(上杉謙信は1578年に死去)
宇喜多直家が裏切り織田方につく
・1581年(14歳)
政宗:隣接する相馬氏との戦に政宗が参戦する、これが初陣となる
日本:羽柴秀吉が鳥取城を兵糧攻めにて落城させる、これを機会に一気に毛利氏が追い詰められていく
・1584年(17歳)
政宗:政宗の父である伊達輝宗が隠居して伊達政宗が17代目当主となる
日本:徳川家康と羽柴秀吉のどちらかが天下を担うのかをかけて戦う、小牧長久手の戦いが発生する、戦いは家康が勝利となるが調略によって秀吉は家康を下につかせる
九州地方で竜造寺隆信と島津義久の沖田綴の合戦が発生して、島津方が勝利し九州の大半が島津家のものとなる
・1585年(18歳)
政宗:城内の人間を全員なで斬りにする『小手森城なで斬り』を行って、一気に有名になる
『粟之巣の変』により、父親を畠山義継に人質に取られたが、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害する
蘆名氏、佐竹氏を中心とした反伊達政宗連合との戦である『人取橋の戦い』が勃発し、政宗が勝利する
日本:秀吉が四国征伐に成功して長宗我部元親を降伏させ、この年に関白になって豊臣性賜姓される
真田昌幸が徳川方と戦い勝利する
・1587年(20歳)
政宗:豊臣秀吉に関東と奥羽の諸大名に勝手な戦を禁ずる『惣無事令』を発令されるが無視する
日本:豊臣秀吉が九州征伐のため大坂城を出陣し、島津家を降伏させる
豊臣秀吉がキリシタン禁止令を出す
・1588年(21歳)
政宗:北方の大崎氏家中の内紛に介入したら、頑強な抵抗と離反に遭遇し敗北
さらには伯父の最上義光が大崎側に立って参戦したため『大崎の合戦』に発展、さらにさらに伊達政宗を憎んでいた蘆名氏・相馬氏が侵攻して『郡山合戦』が発生し立て続けに敗北
その後、伊達成実の奮戦と母・義姫の懇願によって、和議と停戦に至る
日本:豊臣秀吉が刀狩令を発する
・1589年(22歳)
政宗:『摺上原の戦い』で蘆名義広に勝利し奥州南部を平定、これにて奥州の武将たちもついに服従して、合計110万石を支配下に置く奥州筆頭になる
日本:淀殿が鶴松を生み、豊臣秀吉が北条征伐を決意し準備を始める
・1590年(23歳)
政宗:豊臣秀吉が小田原征伐を行うために政宗にも参戦するように要請されるが、政宗は遅刻してしまい、死に装束を着て派手に秀吉に謝る、以後秀吉の配下に下る
ちなみに、参戦したときにはほとんど小田原攻めは終わっており、日和見と言われてもおかしくなかった
日本:小田原攻めが終了し豊臣秀吉による国替えが発生、徳川家康が関東に移動する
奥州仕置が行われて秀吉に会津を没収される
・1591年(24歳)
政宗:奥州仕置に不満がある人達によって発生していた一揆を鎮圧する
ただし黒幕は政宗であり、政宗が書いた一揆勢宛の書状が発覚する
秀吉に喚問されたが、死装束に加えて金箔を貼った磔柱を担ぐというパフォーマンスで凌ぐ、ただしまたまた厳封されて領土が減る
日本:千利休切腹、豊臣秀長死去、豊臣秀吉が甥の秀次に関白を譲る
・1592年(25歳)
政宗:朝鮮出兵の『文禄の役』が始まり出陣するが、派手な格好をして参戦したことで『伊達者』と呼ばれるようになる。
日本:文禄の役が始まる
・1593年(26歳)
政宗:文禄の役では活躍したモノの帰ってくるが、その次の出兵である慶長の役には参戦していない
日本:運命の子とも言われる豊臣秀頼が生まれる
・1595年(28歳)
政宗:豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて、妻子らとともに切腹及び処刑される
秀次と親しかった政宗にも謀反の疑いがかかり、また減転封させられそうになるがなんとか逃れる
日本:豊臣秀次が高野山で自害させられて、続いて豊臣秀次眷族が処刑される
・1598年(31歳)
政宗:仕えていた豊臣秀吉が死去する
日本:豊臣秀吉が死去したことで朝鮮からの撤退が行われる
・1599年(32歳)
政宗:徳川家康との六男・松平忠輝と政宗の長女・五郎八姫を婚約させる、ただしこの行為は誓約違反となり秀吉への裏切りでもある
日本:誓約違反勧告を受けた徳川家康が前田利家と石田三成に詰問される、前田利家が死去する
・1600年(33歳)
政宗:『関ヶ原の戦い』が勃発し、伊達政宗は徳川方で参戦する。
ただし、相手は石田三成ではなく、会津にいた直江兼続で、伯父の最上義光と共に戦う(長谷堂の戦い)。
関ヶ原の戦いが非常に早く終わってしまったために、結果的に直江軍は撤退して勝利という形になる
日本:関ヶ原の戦いが勃発し日本全土が西軍と東軍に別れるが、徳川家康が勝利し、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が処刑される
・1601年(34歳)
政宗:仙台城を築城して初代仙台藩主になる
日本:西軍に属していた上杉景勝が30万石と大幅減封となる
・1613年(46歳)
政宗:家臣の支倉常長をメキシコやヨーロッパに派遣(慶長遣欧使節)するが、国交を結べず失敗に終わる
・1614年(47歳)
政宗:『大坂冬の陣』が勃発し大和口方面軍として布陣して、戦後の外堀埋め立て工事に参加する
日本:大坂冬の陣が勃発する
・1615年(48歳)
政宗:『大坂夏の陣』に出陣して後藤基次や真田信繁と戦うが、一説には味方の神保相茂隊約300人をだまし討ちしたと言われている
また、この戦で敵だった真田信繁の次男である真田守信と三女の阿梅、長宗我部盛親の姉妹の阿古姫とその息子の柴田朝意を味方にしている
日本:大坂夏の陣が勃発する
・1636年(69歳)
政宗:徳川2代目将軍の秀忠や3代目将軍の家光まで仕えていたが、この年に腹膜炎あるいは食道がんが原因でなくなる。
まとめ
以上、いかがだったでしょうか。
今回は伊達政宗の具体的な年表を比較的抜粋した形で紹介しました。
伊達政宗が東北で暴れてある程度の領土を獲得した時には、すでに豊臣秀吉による天下が決まっており、どうにもならない状態にあったのだと思われます。
しかし、天下を諦めていなかったのか、なかなか小ずるい動きも見せていたというのも個人的にかなり面白いと感じました。
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