お正月が終わったら日本各地で当たり前のように行われる鏡開きですが、正しいやり方やマナー、そして意味や由来やいつ実行するのかといった情報を握っている人は少ないでしょう。
一説には関東地方と関西地方ではそもそものやり方や時期が違うという情報すらあります。
今回は関西や関東の違いを交えつつ、鏡開きについての情報をまとめていきます。
鏡開きの意味
鏡開きとは正月の年中行事の一つで、神仏に感謝して神様のためにお供えした鏡餅を、下げて食べるという行事となっています。
その食べ方はお雑煮やおしることいろんな形がありますので、それも人によってさまざまなスタイルとなっているでしょう。
現代日本における鏡開きとは簡単に記載すると、神様の依り代となっている鏡餅を食べることでその力を授けてもらい、家族の無病息災や豊作を祈願するという行事になっています。
もともとは武家の風習だったのですが、それが一般化して大衆にもなじみのある行事となりました。
ちなみに、『鏡開き』ではなく『鏡割り』と表現する人もいますが、『割る』という表現が縁起が悪いというイメージを持たれているので『鏡開き』という表現のほうが一般的となっています。
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鏡開きの由来や意味!
もともと、この鏡餅というのは年神様(としがみさま)という日本各所で信仰されている農耕にまつわる神様が宿る場所とされており、年神様の依り代(よりしろ)として扱われているのです。
この依り代として使われている鏡餅を食べることで今年一年の健康祈願を行うという意味があります。
農耕民族が主体の日本では農業系の神様は何よりも信仰され、年神様も重要な穀物神として祀られていました。
年神様の『年』は『登志(とし)』という言葉の変化から至ったといわれておりますが、もともとこの『登志』は穀物のことであり、年神様とは文字通り穀物の神様となっているのです。
もともとはこの穀物神というイメージが先行していたので、年初そのものを祝うための定期的に来訪する神様というよりは年初に豊作を願って拝まれる神様だったのです。
ところが、時代が移り変わることで豊作を願う神様というよりも、今年一年の健康などを祈る来訪神と変わっていき、漢字も『登志神様』ではなく『歳神様』となり『年神様』となったのです。
この考え方は「お正月の初日の出の太陽とともに現れて山から下りてくる神様」からきていますが、現代における鏡開きの考え方もこの側面が強く出ているといわれております。
ただし、古代日本では1年の始まりが1月1日以外に7月1日も該当すると考えられており、1年は2年に分かれていたといわれていました。
そのことからこの来訪神を祀る行事が1月1日近郊以外に7月1日近郊に行われており、その名残の一例として6月30日の夏越大祓がいまだに行われているといわれております。
ちなみに、この年神様は日本神話にも登場する大歳神と同一視されており、この大歳神はスサノオノミコトとクシナダヒメの子というなかなかにすごい親を持った神様となっております。
そしてこの大歳神も神道における豊穣の神様なので、もともとは豊作を願う神様というのも納得できるでしょう。
このような風習が武士に伝わると、そこからは縁起の良さをより取り入れられるように進化し、鏡餅以外に鎧などの具足を正月に飾って『具足餅』として扱うようになりました。
この具足餅を食べると武家としての運気が向上し1年が健康になるという考え方がされるようになって、具足餅を下げたあとは雑煮として食べるようになったのです。
1月20日は正月に迎えていた年神様がそれぞれの場所に帰る『刃柄(はつか)』と呼称し、1月20日に刃柄を祝うという意味を込めて鏡餅を食べていました。
ただし、武士は何度も記載するように何よりも縁起を重視するので縁起が悪いと考えられたものは徹底的に省かれます。
そこで省かれたのが大きい鏡餅を刃物で切ることは戦に敗れたものが行う『切腹』を連想させるということでNGとなり、『切る』のではなく『割る』ことを優先されます。
ただし、『割る』という言葉も『開く』の忌み言葉だったので、鏡割りという表現ではなく『鏡開き』という言葉を使うようになったのです。
しかし、昔の鏡餅はめちゃくちゃ固かったのでこの鏡餅を食べることを『歯固め』と呼び、あごや歯を丈夫にすることも年神様への長寿祈願につながっていたと考えられています。
このように、豊作祈願目的だったのが、武士の健康祈願や必勝祈願に変わって鏡開きという言葉に切り替わり、一般家庭にも広がったというお話になります。
鏡開きはいつするの?
鏡開きが行われるタイミングはだいたい1月11日です。
土日や祝日の関係で若干ずれることがありますが、全国的には11日が一般的となっております。
もともとは年神様がそれぞれの場所に帰る『刃柄(はつか)』を祝う行事だったので1月20日に行われていたのですが、徳川家光が1651年に亡くなったのが4月20日でありその20日を祝うのは縁起が悪いということで1月11日に日程調整されたのです。
しかし、この11日も門松といったお正月飾りを飾っておく期間である『松の内(15日まで)』の期間だったのでいろいろと疑問符が飛んできたようで、幕府側がさらに日程調整が行われて『1月7日までを松の内にする』と1662年に徳川幕府が日程調整をさらに行いました。
このように日程調整をした結果、一般的な鏡開きのタイミングが松の内が終わった7日以降の数日間が該当するようになったのです。
関東と関西では鏡開きの時期が違うのは本当?
このように鏡開きのタイミングはもともと1月20日だったのに、徳川幕府が2回も日程調整を行って1月8日から11日が鏡開きのタイミングとなりました。
しかし、昔は情報伝達方法が今よりも圧倒的に未発達なので、日本各所にまでこの情報がいきわたらなかったといわれております。
その筆頭が関西地方で、関西地方では今まで通り松の内の期間が15日までだったので、松の内が終わるタイミングの15日に鏡開きを行っていたのです。
このように鏡開きのタイミングはその地域に残っている風習で異なっていますので、自分たちが住んでいる場所はどうなっているのかを調べるのも面白いでしょう。
鏡開きのマナー!
鏡開きのマナーの一つだったのが、割るのが基本なので刃物を使わないことだったのですが、今では普通に切って焼く人も多いのでそこまで気にしている人は少ないのでしょう。
しかし、マナー違反だと感じている人もまだまだいますので、切るのを避けるのも正解です。
個人的なお話ですが、自分がやったときはなかなか割れず思いっきり力を入れて割った結果、砕け散ってしまいかなりお掃除が大変だったので、当たり前のように切るようになってしまいました。
マナー違反かもしれませんが、気にしない人しかそばにいないのならば切ったほうがいいです。
樽酒を開くのも鏡開き?
結婚式などのお祝い事で樽を割る行為を『鏡開き』と表現します。
これは昔の酒屋が酒樽の上蓋のことを鏡と呼んでいたことが由来で、昔ながらの神事で酒樽の蓋を開く行為は行われ続けたのです。
ただし、祭事を行えるような大型の酒樽が登場するのは江戸時代なので、このやり方が広まったのも江戸時代以降といわれております。
もちろん、こちらも行動的には『割る』なんですが『割る』という言葉は縁起が悪いので『開く』という表現を用いられています。
まとめ
以上、いかがだったでしょうか。
今回は鏡開きについて記載しました。
鏡開きは徳川家によってタイミングが変更されていますが、それが日本全国にきちんと広まっていないので地域ごとの差が出ています。
やり方は似ていてもタイミングが異なっていることがありますので、実家はいつ鏡開きを行っているのか一度確認しておきましょう。
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