日本において、桃太郞・金太郎・浦島太郎という『三太郎』はとっても有名な昔話ですが、この中で最もストーリーを明確に覚えていないのは、ほとんどの方が金太郎と答えるでしょう。
そこで、今回はこの金太郎のストーリーをしっかりと見直して、そもそも金太郎には由来やモデルがあったのか、モデルがあるのなら、そのモデルとなった人物はどのような存在なのかを調べていきたいと思います。
マサカリ担いでクマと相撲をしているイメージしかない人こそ、ぜひ呼んでいただきたい記事です。
金太郎のストーリーをおさらいしよう!
『金太郎』は昔話として超有名な、『桃太郞』と『浦島太郎』を含めた三太郎の一人であり、某CMのおかげで知名度がいつまでたっても低下しない存在です。
そもそもこの金太郎のストーリーを知らないという人がかなり多いと思います。
なので、ここではどのようなストーリーだったのかを、簡単におさらいしていきましょう。
足柄山の山奥の家に金太郎と母親が暮らしており、この金太郎は幼い頃から力持ちで元気に動物とあそび育ちました。
金太郎が大きくなると母親がマサカリを与え、そのマサカリで金太郎は薪割りの手伝いをはじめます。
ある日金太郎が動物たちに栗拾いに誘われましたが、崖にかかっていた橋がなくなっていました。
動物たちが困り果てていると、金太郎がその怪力で大きな木を力一杯押し倒し橋をかけました。
橋を渡った動物たちと金太郎は栗拾いをしていたら、茂みの向こうから大きな熊が現れ、動物たちが震え上がります。
しかし金太郎だけは勇敢に立ち向かい熊とがっぷり組み合い、苦戦するも持ち上げて勝利します。
この熊とも仲良くなって、栗を拾って帰宅するのです。
この怪力ぶりを見ていた、ある木こりが金太郎の家を訪ね母親に都で修行させるべきと説得しました。
その説得を受けた金太郎は都に出向いて、学問と剣術学び立派な若者となりました。
名前を『坂田金時(さかたのきんとき)』と改め、お侍さんの家来となり悪者をやっつけたのです。
このようにある程度抜粋して紹介しているのですが、それでも長いお話になってしまっております。
必要な要点を押さえてかなり省いてもこれなので、かなりストーリー的には長めとなっています。
金太郎は知っているという人でも、熊と相撲をすることになった経緯や、その後都に出て修行をして『坂田金時』になったという部分までは知らない人も多いと思います。
また昔話では立派な武士になったという部分で終わっていますが、坂田金時の話はここでは終わらず別の逸話を大量に残しているのです。
人によっては、この坂田金時の逸話の方をたくさん知っているという方も多いと思います。
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金太郎をもっと掘り下げていこう!
金太郎のストーリーをある程度把握したところで、皆さんが気になる伝承や逸話や言い伝えがどうなっているのかを一つ一つ確認して行きましょう。
坂田金時として逸話や伝承がしっかりと残っておりますので、昔話の人物とは思えないぐらい色んな逸話や伝承を学ぶことができるのです。
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何時代のストーリー?
桃太郞や浦島太郎は何時の時代のストーリーなのか、かなりあやふやですがこの金太郎は坂田金時になるのである程度の時代特定はされているようです。
その中でも有力視されているのが、静岡県駿東郡小山町にある金時神社の伝説で、ここでは金太郎の誕生は956年とされております。
平安時代が794年から1185年までなので、金太郎のお話は平安中期頃の物語と言えるでしょう。
申し越し時代背景を読み解くために、この頃会った日本の歴史を確認します。
901年に菅原道真が藤原時平によって太宰府へ左遷され、905年には『古今和歌集』が撰進されます。
935年に土佐日記が誕生し、940年には平将門が平貞盛と藤原秀郷によって討たれるのです。
900年代は藤原家が摂政や関白に就任するので、藤原氏の力が非常に強い時代と言えるでしょう。
また、平将門は「新皇」を自称して『朝敵』になり討たれますが、平家はまだまだ力がある時代とも言えます。
場所はどこのお話?
金太郎は足柄山の山奥で育ったと明記してあり、この足柄山とはどこなのかである程度場所は特定できるのです。
この足柄山は神奈川県の南足柄市にある山なので、神奈川県のお話になるのです。
桃太郞や浦島太郎はどこが発祥なのか、諸説あり場所の特定がかなり難しいのですが、金太郎は明確にどこで育ったと書いてあるので、特定がかなり簡単になっています。
ラストの『お侍さん』って誰?
『坂田金時』と名前を改めてお侍さんの家来になるというお話で、金太郎の昔話は終わりますが、このお侍さんとは『源頼光(みなもとのよりみつ)』のことです。
この源頼光は妖怪が好きな人にとっては、超がつくほど有名な人物と言えるでしょう。
源頼光は平安時代中期に、『酒呑童子討伐』や『土蜘蛛退治』の説話を残しています。
なんと妖怪や化け物退治のエキスパートで、坂田金時はこのエキスパートの一味として妖怪退治をするようになります。
室町時代に成立した『御伽草子』には、源頼光が坂田金時を含めた『四天王』を引き連れて大江山の酒呑童子を退治しに行くという逸話が記載されており、現代でもその逸話を知っている人も多いでしょう。
ちなみに、この源頼光の子孫が鎌倉幕府を開く源頼朝であり、血筋的には超エリートの家系で、坂田金時も、このエリートに見出された一人となっております。
ちなみに、頼光四天王とは坂田金時以外に渡辺綱(わたなべのつな)・碓井貞光(うすいさだみつ)・卜部季武(うらべのすえたけ)となっております。
渡辺綱は京都の一条戻橋の上で、鬼の腕を『髭切りの太刀』と呼ばれる源氏の名刀で切り落とした人物です。
卜部季武は逸話こそ少ないですが弓の名手であると言われております。
碓井貞光は碓氷峠にいた巨大な大蛇を退治した人物であり、木こりの振りをして人材捜しをしていたところ坂田金時を見出した人物でもあります。
このように源頼光を含めて四天王仲間もなかなかに濃い人物が集まっているのです。
どこで亡くなった?
通常の昔話と違い、この金太郎は坂田金時として名前が残っているので、どこで亡くなったのかといった情報も残っています。
有力視されているのが、1012年に九州の福岡県に賊を征伐するために赴いたが、その途中の岡山県で重い熱病を患って亡くなったと言われております。
享年55歳です。
この坂田金時は多くの人が慕っており、亡くなったおりに『剛勇』という意味がある『倶利加羅神社』を建築して、そこに葬ったと言われております。
この『倶利加羅神社』は名前を変えて『栗柄神社』となっております。
栗柄神社は岡山県の観光スポットの一つとして今でも残っているのです。
まとめ
以上、いかがだったでしょうか。
今回は金太郎のストーリーや金太郎のその後についての情報をまとめました。
このように金太郎は坂田金時となって、頼光四天王として様々な逸話を残し続けています。
渡航に大江山への酒呑童子退治や土蜘蛛退治の逸話は非常に有名でしょう。
妖怪が登場する物語では最強キャラクターとして登場することが多い酒呑童子ですが、実は昔話の登場人物である金太郎とこのような繋がりがあったのです。
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